現実からの逃避旅行記

現実逃避の物語。

「黒兎狼」

壱:黒兎狼

ボクは目を醒ました。
そこには少年がいた。
「お母さん!目ぇ覚ました!」
「あら、ほんまや。イーブイにちゃんと挨拶した?」
誰だ?
なにを話してる?
ここはなんだ?
「おはようさん。これからよろしくな!『ツキミ』」

ボクが目を醒ました時、目の前には少年がいた。
少年は『お母さん』と呼ばれる女の人を呼んだ。
ボクは何が何だかわからなかった。
ただ一つ、
ーこの少年と生涯を共にするー
という感覚だけが強く刻まれていた。
少年と時間を共にすることで少しずつわかって来たのは、どうやらボクは彼らと同じ生き物ではないのだということ。そして、それでもボクらは『家族』なのだという事。
この家には少年の他に『お母さん』『お父さん』という人間がいて、それぞれが『ポケモン』と呼ばれる生物を連れている。
ボクはこの少年の『ポケモン』なのだろう。
彼はボクを『ツキミ』と呼んだ。
それがボクの名前だ。
この名前に意味があるのかどうかはわからない。ただ、なんとなくー自分を肯定されているー感じがしてボクはその名前を好きになった。
「ツキミ。ご飯やで」
『ツキミ』という言葉以外は理解ができない。
だが、
「こら、飛び跳ねんといて!」
そう言って笑う彼がボクは大好きだった。
「ツキミはほんまにご飯好きやな」
「“おや”に似るって言うのはほんまやな」
「ぼくこんなにはしゃいでないもん!」
そして、そんな彼が愛する家族もまた、ボクの愛する存在になっていった。
ボクらは何をするにも一緒だった。
寝る時も、ご飯を食べる時も、バトルの練習がしたくて夜中に裏口からこっそり出たり、いたずらしてお母さんに怒られたり。
何をするにも暖かい、ここに居ることがとても幸せだった。

ある日、知らない男が訪ねて来た。
その男はスラっとしたスーツを着ていて腰が低かった。
「ですから、そこをどうにか」
「そう言われましても、無理なもんは無理なんです。お引き取りください」
男は何かを欲しがっている様子だった。
そして、その低姿勢とは反面的に
「ツキミ、どうしたん?そんな威嚇して」
明らかな敵意の匂い。
この男はこの場所を壊す危険性がある。
それからというもの男は毎日顔を出した。
その都度お父さんやお母さんが追い返していたが、男はめげなかった。
「お願いしますよ。旦那」
「帰ってくれ」
来る日も
「旦那!今日こそはあなたのー」
「何言われても渡さんもんは渡さん」
来る日も
「旦那ー」
「ええ加減にしろ!無理なもんは無理や!警察呼ぶぞ!」
ついにお父さんが大声を張り上げた。
温厚なお父さんからは想像のつかない程の怒声。空間が凍りついた。
「はぁ…わかりました。諦めます」
深くため息をついて肩を落とす男の口からその言葉が溢れた時、家に安堵が流れた。
しかし、殺意。
男はモンスターボールから『ジュペッタ』を繰り出しお父さんを襲った。
「わたしもあまり野蛮なでは使いたくなかったのですが…あなたたちが悪いんですよ?素直に渡していればいいものを」
家中に充満する殺意の匂い。
リビングから玄関を覗いていた少年はその異臭に当てられたのか身動きすら取れなくなっていた。
「くっそ…逃げろ!」
お父さんは『オドシシ』と『ケンタロス』を繰り出し、それぞれにお母さんとボクらを逃す様指示した。
オドシシケンタロスは指示に従いボクらを連れて外に出た。
「自分より家族ですか…呑気な人たちだ」
「お前に何がわかんねん!」
「よほど死にたい様ですね…」
裏口を出てすぐ、お父さんの悲鳴が聞こえた。
ポケモン達はその声を聞いて、止まった。
主人の悲痛な叫びと指示を天秤にかけた結果、ボクたちを物置に押し込めた。
彼らなりにボクらを匿ったのだ。
そして、主人を助けるべく家に戻った。
家の中が騒がしくなった。
物が壊れる音、ポケモンの悲鳴、お父さんの悲鳴。
少年には痛すぎるほどの音が襲ってくる。
ついには、その喧騒に耐えかねたお母さんが動いた。
「絶対に出て来たあかんよ。何があっても」
お母さんはそういうと家に戻った。
ボクらは暗い物置の隙間から外の様子を伺った。
しばらく喧騒は続き、お母さんの悲鳴を最後に消えた。
いやに静かだったのを覚えている。
そこには何の音もなかった。
もしくは、ボクらが耳を塞いでいたのかもしれない。それほどの静寂。
そして、それは一瞬にして切り裂かれる。
男が裏口から出てきたのだ。
「あのクソ夫婦め、わたしを誰だと思ってやがる…」
その手には見たことのない『壺』が握られていた。
「ふふ…ふはは…ふははははは!これで、これでわたしの計画は完遂する!!フーパが、目覚める!!」
その瞬間、物置の扉が開いた。
何故開いたのか、理由を知るのに時間は必要なかった。
裏口の奥で床に這いつくばるお母さんの姿が見えたのだ。
少年は何よりも助けることを優先した。
少年は走った。そんな彼をボクは追いかけた。
「おや、そんなところに居たんですか…」
悪寒がした。
男が不敵に笑って居た。
その意味はすぐに知ることになる。
ボクらが家に入ったと同時に裏口が炎上し始めたのだ。
その上、ボクらは体の自由を奪われて居た。
“かなしばり”だ。
血まみれの床に横たわるお父さんとお母さん。
かろうじて息のあるお母さんは恐怖する少年を見て言った。
「い…き、て」
声にならない声。
胸が張り裂けそうな程の“何か”が込み上げてくる。
悲しみでも、寂しさでも、憎しみでも、怒りでもない。言葉にならない感情だった。
愛する者が目の前で果てる様を何もできずに見せつけられる。
声を上げて泣くことも、こぼれ落ちる涙を拭くことも許されない。
その内に、火はボクらを取り囲んだ。
いつしかお父さんの姿すら見えない。
爆炎の中でボクらはただ立っている。
虚無。
虚無。虚無。虚無。虚無。
苦しい。
空気が熱い。
薄れゆく意識の中で、一つの声が聞こえた気がした。
「くっそ、遅かったか…死ぬなよ。生きててくれ」
敵意はない。
あの男のものでもない。
なぜか安堵が押し寄せた。

そして、気付いた時にはボクらは森の中にいた。
なぜ森にいたのか?なぜ野生のポケモンに襲われていなかったか?なぜ生きているのか?
疑問はたくさんあった。
しかし、その疑問は消えて間もない焚き火が物語っていた。
誰とも知らない人に拾われた命。
少年は言葉を絞り出した。
「生きよう。生きよう…生き…」
彼の頬を涙伝う。
ボクは彼の頬を舐めた。
「こ、こら、くすぐったい」
彼は笑ってみせた。
不安にさせないように。
心が凍て付かないように。
自らの悲しみを心の奥に閉じ込めて。
それが痛かった。

ボクらは生きることを選んだ。
その為に手段は選ばなかった。というより、選べなかった。
生きるために物を盗み、生きるために戦った。
街では嫌われ、森では野生ポケモンに襲われる。
それでも彼は笑っていた。
そんな日々の中でボクは進化した。
満月の夜だった。
「また随分似合うやんか」
少年の笑顔が好きだ。
あの優しい笑顔が好きだ。
だからせめて、二度と彼にあんな思いをさせない為に。生きよう。
それがボクにできる唯一のこと。
闇を優しく照らすこの月のように。
ボクはそう誓った。